ストーリー


2章

俺はゆっくりと縦長のグラスから口を離し、静かにそれを茶色いコルク製のコースターの上に置く。
西日が差し込む昼下がり、夕暮れで明るく染まった店内とは対照的に、俺たちは暗く神妙な面持ちで手元に視線を落としていた。
しばらく続く沈黙ーーグラスに出来た水滴が大きな粒となって、まっすぐ線を描きながらコースターに吸われるのを眺めていると、この重い空気を締めるように、溶けた氷がグラスの中からカラッと音を立てた。
静寂の均衡を崩すべく、モカは俺の顔を真っ直ぐに捉え、口を開ける。

「昨日は何か見間違えでもしたんだよ、きっと。それか、夢でも見てたとかだよ、うん」

モカもまた俺と同じように先ほどのことをずっと気にかけていたようだ。
先ほど、と言っても体感としては随分と長い時間が過ぎたように感じるが、感じた衝動は今も余韻となって身体に残り続けている。

今から小一時間ほど前のこと、俺とモカは昨晩の事件についての真相を究明するため、件の路地裏に立ち寄った。
おそらくは殺人事件、と思しき惨状がどのように起こったのか、そして読み込んだはずのデータが消えたロジックは何だったのか、もう一度現場を確認すれば何か少しでも判明するかもしれないという一抹の希望を胸に。
しかしそこには何も無く、赤黒い血の一滴の跡すらも発見できなかった。

俺とモカはしばらく現実を受け入れられず、何度も見た場所を観察しなおしては首を傾げての繰り返し、だがそれを繰り返しても結果が変わらないことをようやく頭の中で無理やり認め、路地を後にした。

何がどうなっているのか頭の整理がつかず、二人並んで呆然と歩いていると、道端の店の扉がチリンと音を立てて開いた。ドアから差し込む心地よい冷気がひとすじ頬を撫で、身体が無意識にそちらへ吸い込まれていった。疲れていたのは心か身体か。ともかく、気づくと席につき、目の前に飲み物が置かれていた。注文を自分でしたはずなのだが記憶が曖昧で、自分にうすら怖さを覚えた。

そうして今に至るのだが、モカの先刻の忘れよう、という発言に俺は心の隅で引っかかるところがあった。というのも、昨日見た事件は人々の安全を保証するためにあるesデバイスそのものの根底を覆すものだったからだ。仮に今回の殺人のロジックが表沙汰になるより先に、悪人たちの間で共有・認知されれば、真っ先にその矛先が向くのは俺たちスラム街に住む人々だ。

その理由は単純ーー警察組織が有料であるからだ
セントリアがスラム街というのは、国全体でも周知の事実で、そこに集まる人々は身寄りのない人や帰る当てのない移民ばかり。そんな人々に何か起きても、謝礼金を前提とする警察組織は基本的に動くはずがない、となれば犯罪を迎合する人間の考えることなど一つしかない‥という寸法だ。

本来はそれを防止する意味合いも含めてのesデバイスなのだが、今回の事件は当たり前となった身近なアイテムに、言い換えれば俺たちの常識に一石を投じる出来事だった。整備士として見過ごしていいのかと揺らいでいるのが本音だ。

しかし今の考えはタラレバの最悪パターンだ。不安そうな気持ちを押し殺そうと必死に笑顔を取り繕うモカを思えば、今の考えも、自分の小さな責任感も、言葉にするのはあまりに残酷だった。

「そう…だな。昨日は疲れてて見えるはずのない物が見えてたんだ、多分。。。そうそう、疲れてたと言えば昨日のお昼過ぎに診た人が酷くてさ~」

日常に紛れ込んだ小さな異常が数日後にはただの逸話になると疑わず、元在った日々に戻ることが俺たちにとっての事件の綺麗な落としどころなのだと信じるしかない。今までの考えを一旦断ち切り、世間話を振ると、モカはどこか安心した表情でそれに応え、いつもの調子で言葉を交えてきた。
俺の気分の問題かもしれない。だがモカの顔色、というか血色が良くなったように見えた。もしかしたら、自分の行動で彼女に気を張らせていたのかもしれない。そう思うと、軽率だった自分を強く恥じた。
もう彼女を同じような目に合わせないように、もっと慎重な行動を心がけていこうとその時強く心に誓った。それからまた、俺たちの日常は姿を取り戻していくことになる。

偶然入ったカフェでモカと一通り話をした後、モカとは店で解散し、それぞれがまたいつも通りの日常を送り出した。そしてあれから2日後の夜のこと。俺のesデバイスに一件のメッセージが届いた。

fromモカ:[明日時間あるかな?もし良かったら一人紹介したい人、というか診てもらいたいって人がいるんだけどー]

モカの知り合いか、友人か、その子が俺にメンテナンスをお願いしたいということなのだろう。整備士は基本的に顧客と整備士の間の信頼ありきの職業なので、こうして仕事が舞い込んでくることはほとんどない。誰かに整備士としての俺を紹介してくれたということは、モカが俺のことを信頼してくれている裏付けでもあるのでとても嬉しい。
少し口角が上がりかけたが、直ぐに襟を正して一呼吸。これで紹介してくれた子への仕事に不備があれば、俺だけでなくモカの信頼にも傷がつく。今後ともお得意先として付き合いをもつ相手になるかもしれないので、重ねて間違いがないようにしようと緊張感を持って返信する。

[明日だな。ちょうど 夕方ごろから なら空いているからそこでいいか?]

送ったメッセージにすぐに既読の2文字がつく。返信が来るのを待っていたようだ。そして俺が送った数秒後に早くもモカから返信が返ってきた。

fromモカ:[うん、オッケーオッケー!]
fromモカ:[って本人がいってるー]

どうやらモカの近くに新しい依頼主も一緒にいるようだ。文面からモカと同じようにかなり話しやすいタイプの子なのだろうか。そうであればそれに越したことはないので俺としてもやりやすい。
とりあえず相手のことは明日会ってから把握するとして、それ以外の待ち合わせ場所やら具体的な時間帯などのすりあわせをモカとしていく。明日は共通の知り合いとして顔合わせにモカも来ると言ってくれたので、万が一向こうがかなり口下手なタイプでも全くもって問題はないだろう。連絡の一切を俺とモカでしてしまっていることがかなり気がかりではあるが、年頃の若者の対人関係は本来そのようなものなのだろうか…たまにズレている自覚があるので戸惑ってしまう。この調子で今後もメンテナンスの予約をモカ経由で、とかそんなことがないと願うしかないな。

そうして翌日、夕日が傾き、オレンジに染まる空に黒々とした影が差し込みだした頃合いのこと。俺はモカとの話し合いで取り決めた集合場所であるセントリア州立噴水前に来ていた。
ここはセントリア東部にあたるエストラーダ区に所在し、昔老朽化と衛生面の問題から水が流れなくなった大きな噴水を有する広場だ。昔は噴水をベンチで眺めて楽しむカップルや家族連れの人が多くいたと聞くが、水が枯れた今でもちらほらと人が集まり、ベンチに腰を下ろして会話を楽しむ集会所のような場所として機能しているらしい。
今日も例に漏れず8人ほど人が散見された。だが驚いたことに集まっていた人たちの年齢層が3,40代ほどの人達だった。あくまで俺のイメージでは、小さい子供や高齢者が多くて5人くらいいればいい方だと思っていたが、キレイ目の服装(ここ具体的な描写出しておく?+服装が似ているという情報をこの段階で出してしまうか…?セールスマンくらい振り切って異質な感じもあり?)に身を包んだ大人がメインでいたので気安くベンチに腰掛けに行くのは少し気が引けた。
その場に突っ立っていると変に目立ちそうで、その場をゆっくり歩きながらあたりを見渡すと、一つ誰も座っていないベンチを奥に一つ見つけた。噴水の周りを大きく回り込むようにしてそのベンチまで進み、静かに腰を下ろした。
待ち合わせより少し早めに到着したため、例のごとく手持無沙汰になった俺は、esデバイスで音楽でも聴いて時間をつぶそうと操作を始める。今の気分は少し緊張している(なんでこうなってるのか説明不足)ので、この強張った心持ちを少しでもほぐしておきたいところだ。リラックスするゆったりとした曲を流そうか、いや、最近ハマっている曲でテンションを高めようか…
と、これから流す曲を思案しつつ音楽再生画面を開いたところで、近くに腰を下ろしている大人の一団の会話がふと耳に入ってきた。

「やはりデバイスに不純物を混ぜるのは善くないことだよな、全く」

「ああ、バグが生じたら我々がそれを消さなくちゃいけないしな」

「誰があんな善くないものを開発してばらまいているのやら…」

どうやら同業者のようだ。最近動作不良のようなものが起きる事例があるとモカから聞いていたが、それについてだろうか。俺はまだ自分の目でその動作不良とやらを見たことがないので、実のところ今1,2を争う程に気になっているトピックだ。話から推察するに、このうちの1人が実際にこの事例に立ち会ったことがあり、その情報共有をみんなでしているようだ。興味深さから心の中で勝手にこの人たちの会話に相槌を入れて、会話に混ざった気で自然と耳を傾けてしまう。
それにしても責任感が強い人たちなのか仕事熱心な人なのか、おそらく仕事終わりだろうにプライベートでまでデバイスの時事について話し合うとは‥流石だと心から感心してしまう。内容は割と愚痴に近いものではあったが、デバイスへの想いや熱量は、言葉の端々から感じられるーー

「ん“ん」

軽く咳払いをする。いけない、いけない。これからお仕事だと言うのに頭が雑念まみれで仕方ない。一度思考を0にリセットして心を整理しよう。
ゆっくりと呼吸を繰り返しながら気分を落ち着かせる。すると身体が思い出したかのように少し心拍を早め、緊張感が形を成したかのように全身にまとわりついてきた。今ある緊張感を適度な具合に保つためにはやはり聞き慣れたプレイリストを聞き流しておくに限るな、そう考え、お気に入りのプレイリストの再生ボタンに手をかざす。(根幹の設定に対する解像度を高めて)
耳なじみの良い曲調が流れ出し、軽快なテンポが頭にスッと入り込んでくる。軽快なジャズ調のその音楽に安心を感じるのは行きつけの喫茶店で流れている曲と雰囲気が若干似ているのも要因の一つかもしれない。いつ聞いてもいい曲だとしみじみ感じながら両眼を閉じて、曲に集中しようとしたところで、早くも一人の瞑想タイムは終わりを告げる。

「おーーいっ!」

俺にめがけて呼びかけてくる声が開けた広場に響く。顔を挙げて、そちらに視線をやると、二人の人影が正面から段々と近づきながら、その内の一人、おそらくモカと思しき人が、こちらに対して手を振ってきているのが見えた。
まぶたを急いで開いたところに、目映い斜陽が飛び込んできて、くらんだ視界でぼやけた像を結び続ける。目を何度かしばたかせてピントを合わせると、シルエットの輪郭がはっきりと固まり、ようやく近づいてくる人影の正体の推察が、確信へと変わる。
モカと、モカより少しばかり身長が高い男の人?が並んでこちらにやってくるのを確認し、俺も軽く手を上げてジェスチャーで中距離から挨拶を先んじて交わす。モカはこちらに緩く笑みを向けているが、隣の人は完全に対照的だ。両手をトップスのポケットにダランと突っ込み、うつむき加減で明らかにこちらから顔をそらしている。目線を向ける先は斜め前の地面でありながら、モカとしっかり歩調を合わせてまっすぐ歩いてくる姿はどこか様になっている。

程なくして二人がオレの前までやってきたので、一度ベンチをたってしっかりとした挨拶をする形をとる。

「ごめん、少し遅れちゃったかな。バイトが少し長引いちゃったんだよね~」

モカが口火を切って話を始める。今日のモカは、オレンジ色の刺繍を裾に小さくあつらえた、白地のゆったりした七分丈のシャツに、くすんだ桜色のジップパーカーを羽織り、カーキのロングスカートを合わせた格好で、暑さが落ち着きを見せつけだした今に適した生活感ある服装を身にまとっている。
以前服についてモカと少しだけ話したことがあるが、女性物は特に、かわいさやオシャレさといった水準の高い服がここ周辺では中々取り揃えが悪く、またあっても基本的にとても高価らしい。そのためよく古着屋などを利用すると言っていたが、こんなものも売っているのだろうか。うまく形容するのが難しいが、柔らかい雰囲気でモカらしさを感じる。
モカの服装に注目して見ていたところ、肩が小刻みに揺れていて、大きく息をしているのが目につく。息が上がっているみたいで、おそらく少し早歩きでここまで来たのだろう。普段のモカならばスカートの裾が小さくめくれているのを放置したりしないので、その珍しさから急いだことは容易に想像がつく、とそこまで考えて俺は返事をする。

「いや、急ぎじゃないから焦らないでよかったのに。とりあえず、バイトお疲れ」

「うん、ありがとね」

そう言ってモカはふぅー、と一度大きく息を吐いた。すぐに呼吸を整え、改めてこちらに顔を向き直すと、それじゃ早速本題に入るねと前置きをしてから片手を開いて、隣で気だるそうにする少年の方へ指先を向ける。

「この子が昨日話した、あたしの友達のセレナちゃんです!同じバイト先で知り合って仲良くなったんだ」

笑顔で紹介してくれたモカには悪いが、俺はノーリアクションで固まってしまった。モカからセレナ「ちゃん」と聞こえたが聞き間違えか…?
驚きのあまり、用意していた定型の挨拶を投げることも忘れて立ち尽くしていると、モカの紹介から1拍間をおいて、隣にいる少女がようやく目線をこちらに合わせて声を発した。

「リュカ・セレナだ。セレナでもなんでも、好きに呼んでくれて構わない。今日は…まあよろしく頼む」

女性にしては比較的に低い、ハスキーな声でそう応えた。ネイビーのインナーシャツに大きめのアーミーグリーンのジャケットを着合わせ、ミリタリーテイストの細身のカーゴパンツをボトムスに選んだそのファッションと、さっぱりとショートに切りそろえた髪型、そして極みつけに中性的な顔立ちをしたその様相は、遠目から見ると女性と判断する方が逆に難しいと言っていいレベルだ。肌の露出を一切押さえた服装は、今の暑さがまだ残るこの季節には少し似つかわしくないように感じるが、汗の一滴もかかず、表情ひとつ変えずに涼しい顔を保つ彼女に、クールビューティーという単語を自然と連想した。
彼女への第一印象から俺が思ったことと言えば彼女の性格面というかテンション感に近いものの印象に大きな齟齬があったことのショックだ。モカからの昨日の連絡を見た限りではもっと明るい、それこそモカと似た明るめの友人を紹介されるのだとばかりてっきり想像していたのだ。だがその実、まったくの逆で、大人しいというか一人を好んでいそうというか、なんともモカと一緒にいるのが一番想像しがたいタイプの人が急に目の前に現れたという感覚でいる。
モカがセレナさんの言葉を自分のテンションで翻訳して、俺にメッセ送信したのか…まさかこんな性格詐欺ついでに性別詐欺までセットで用意されているとは思わなかったので正直どう対応していけばいいか困るが、一旦会話を試みてみよう。
モカへの恨み節を並べる余裕すら持ち合わせる暇もなく口を開こうとしたところを、先を越されてモカが話し始める。

「それでこちらが前に話した例の整備士さん、えっと」

「ああ、わかっているから大丈夫だ。個人的に付き合いを持つほど仲がいいと私に色々と話を聞かせてくれたあの彼だろう?」

「まあ、うん。合ってるんだけど…」

外見からはあまり想像がつかなかったが、思いのほかに柔らかい口調だし、モカとは話もそこそこにするようだ。普段から少し声や表情に強弱の起伏があまりないような、常に平坦な話し方をしているのかもしれないが、口下手というか奥手な人ではないのかもしれない。
そして対するモカはと言えば、紹介をしようとしたところで出鼻をくじかれたからか俺についてセレナさんに話していたことを本人の前で暴露されたことへの恥ずかしさからか急に勢いを失ってついに黙り込んでしまった。俺と話しているときには見せない一面を見ることが出来、こんな表情も見せるのかと少々驚きを覚えたと同時に微笑ましいやり取りに少し口角が上がってしまう。ふふっと笑う際の声が少し漏れてしまったので、その勢いのままに話に参加する。

「はじめまして、多分伺ってると思いますが、今現在のモカのデバイスのメンテナンスの担当整備士兼モカの大の友人です。今日はよろしくお願いします」

「ああ」

まだ俺との会話は慣れないためか短い返事のみ。だがモカとの会話の感じからも、別にあえて不愛想にしているとかではないのだろうから段々と彼女の人となりを把握しつつ会話のリズムをつかんでいこう。これからの方針を心の中で策定していると、あまり意識して言ったつもりもなかった一言にモカが苦言を呈してきた。

「二人そろってなんかあたしのこと、からかってきてない?しかも割とナチュラルにさ!」

俺とセレナさんは示し合わせるでもなく黙って首を横に振った。俺はあえて狙って言った節があるが、モカにどつかれる未来が見えたので気づかなかったフリを決め込むことにした。知らぬが仏というやつだ。
だが隣のセレナさんはと言えば…あくまで憶測だけど本当に無意識でやったんだろうな。
モカは俺たちの反応に思うところがあるようで二人を会わせるべきじゃなかったかもだのなんだのと声にならない声でぶつぶつ言っていたので、一旦ノータッチにして、セレナさんについてモカから話を聞いていたことについて尋ねてみることにする。

「セレナさん、普段メンテナンスは基本全くやってこなかったと聞いたんですが本当なんですか?」

「ん?ああ、必要性を感じなかったからな。」

「必要性?」

「そうだ、整備を仕事とする君を前にこう言ってはあれだが、メンテナンスで異常が見つかる事例など滅多無いだろう」

「まあ、確かに」

「それに。メンテナンスについては一時期話題になっていたようだが、トラブルも多くあっただろう?」

「一応それは、デバイス法ハラスメント条項の制定される前の話ですけどね」

「だが根絶された訳ではない、よく知っているだろうが」

そう言って一瞬モカに目線をやってから鋭い眼光でこちらを見据えてきた。
セレナさんの言うように、esデバイスの問題点と呼べるものは確かに存在する。
そう、esデバイスは今でこそ人々に普及しているが導入直後の国民からの大反発以外にも、幾度と無く大きな問題に直面しては乗り越えてを繰り返してきた複雑な歴史が存在する。俺も全てを知っているわけではないし、知っている限りを思い出すだけでも相当な時間がかかるため、特にニュースとして大きく取り上げられたものに限れば、主にあの二つがデバイスの歴史の転換点と呼べるものだろうーー

一つ目は整備士の職業が生まれる発端となったある男性のデバイス拡張機能暴発事件だ。拡張機能と言えば、今では言わずと知れた安全機構だが、昔に一度そのシステムが正常に起動しない誤作動があったらしい。
具体的なことはよく知らないが、何かしらの動作をトリガーに、擬似的に再現する痛みの度合いが誤って大きく出力されるようになっていたのだとか。システムの根幹に関わる部分の不具合とあって国民全体に大きな波紋を呼ぶ大事件となった。
確かに誰かとハイタッチをしただけで骨折級の痛みが腕に走ったらたまったものではない。
当時技術者が急いで改善したものの、同時に多くの医療人を治療で要した背景があるらしい。そのため、医療と機械のどちらにもある程度精通した人間に資格を与えて整備をさせるべきだと言う意見がまとまり、それから整備士は公に職業として社会に浸透していくことになった。

そして二つ目が整備士の法制度についてだ。整備士という職業が浸透し始めてしばらくして、整備士という存在が世に広まってきたものの、具体的に何を行う職業かが市井に十分に広まっていなかった頃のこと、いわゆるハラスメントにあたる事件が多く発生するようになった。メンテナンス中は無防備になる被施術者に対し、よこしまな思いを抱き、性的暴行を加える者。メンテナンスを通して拡張機能のオンオフが可能であるというホラを吹き、自分こそは安全な施術をすると謳って客の市場独占を図るもの。拡張機能を悪用して痛覚に干渉できると嘘で揺すり金銭をせしめる者など、整備士としての立場を悪いことに利用しようとする輩が出没するようになった。しかも更に悪いことに、被施術者側も事実無根でありながら何かしらの脅し・ハラスメントに該当する行為を受けたと宣い、慰謝料をふんだくろうとする者も現れだした。
事態の収拾が付かなくなることを見越した国は、早急に整備士関連の法案を厳正な内容に改正した、という流れがある。

ただセレナさんがあえて口に出して言及したように、この法整備が為されたからと言って事件が0になったかと言えばもちろんそんなことは無かった。表面的に露出しないだけで、陰湿な事件性のある行為を行うものは今でも後を絶たない。このご時世、それを黙認する社会が出来てしまった結果がこのセントリアとも揶揄されている。

実際に身近なところで事件になる寸前のグレーゾーンの事案は横行しているのだ。モカも、実のところその被害者の一人だ。モカは前任の整備士とトラブルがあった、それはセクハラまがいの行為を受けたために、だ。うら若い少女に言葉巧みにあれやこれやと、あることないことを吹き込み心を揺れ動かすことなど、大人からすれば容易なことだったのだろう。具体的な内容は本人が思い出すことも辛いためかぼかして説明してくれたことがあったが、大人の男の醜悪な欲望を肌で感じたというそのエピソードは聞くに堪えるものがあった。
今よりも幼かったモカに対し、必要以上の過度な身体的接触、性的発話行為をするなど、その陰湿さたるや酷いの一言では言い尽くせないほどおぞましい。

セレナさんが俺に対して鋭い視線を向けてきたのは、後任となったお前も似たようなことをしないだろうなという警告の意味合いを込めた行動だろう。

「安心してください。規約に従って仕事をしてますから、セレナさんも含め快適に施術を受けていただけるかと」

可能な限り芯の通った声で自分の決意というか、格好つけた言い方をすれば仕事への信条を伝える。

「信じるよ、君のことは。ただ…」

視線が交差して、少しの静寂が2人の間に流れる。そして彼女は瞬きと共に視線を斜めにずらしながら含みのある言い方をした。俺はその先の言葉が気になり、話すように促した。

「ただ?」

「私がデバイスそのものに対して懐疑的なことに変わりは無い」

「それは…動作不良や事故が起きるから、ってことですか?」

「それも無くはないが、人と社会のつながりに悪影響だと思うところが大きい」

「いや、そんなことは」

整備士として、デバイスに関わるものとして、自分なりにこの機器の有用さを認めているため、彼女の持論も一理あるが、そればかりではないと主張しようとしたところを彼女の言葉に遮られる。

「こいつは危険から身を守る装置なんて謳い文句だが、人々の日常に潜む様々な危険の全てから守ってくれている訳じゃない 」

確かにそれは正しい。実際最近デバイスを有しながらに殺されたと思しき人も目撃した身として、思い当たるところはかなりある。彼女の筋道通った意見には目を見張るものがあり、それについてもう少し意見交換をしてみたいと思った矢先、今まで静かにしていたモカが突如こちらの話に割り込んできた。

「二人ともそんなケンカ腰にならないで、折角集まったいい機会なんだしさっ」

俺はもちろん喧嘩なんてしているつもりはなかったが、モカからは俺たちの話し方やトーンから、言葉の応酬をしているように見えたのだろう。もしかしたらセレナさんもモカと同じように受け取ったのかと思い横目に表情を確認してみたがキョトンとした顔をしていた。俺と同じように意見交換の範疇でいたのだろう。

「とりあえず場所うつそ?座ってゆっくり話す方がいいよ、きっと」

「うん、そうだな」

モカの誘いを受けた俺たち一行は昨日のうちにモカと決めていた場所へと移動をすることにした。俺とセレナさんは一歩前にいるモカの横に並んだ。そしてモカを中心にして3人横並びで歩き出し、広場を後にする。

その時、先ほど広場にたむろしていた大人たちの視線がなぜか俺たちの背中に集まっているのを感じた。歩き出した時に横目で確認しただけだが、俺たちに集まっているように感じた視線は一体なんだったのだろう…
気付くと歩幅の小さくなっていた俺に気がついたモカに声を掛けられ、それ以上深く考えるのを止め、その場を離れた。


俺たち三人はこの広場より更に東の方角にある、とあるお店へと向かっていた。店はセントラル州立噴水と同じ地区にあるが、歩いて20分ほど要する少し遠いところだ。わざわざそんな遠いところまで移動している理由は、この近くでは珍しい個室部屋を貸し出すサービスを行っている店がやっているからだ。昨日の時点でモカと話し合った際に、ここで作業をするのがいいと強く推されたことから理由は深く聞かずに決定したのだった。
折角の機会なので、なぜここを選んだのかモカに耳打ちをして聞いてみることにした。

「モカ、今日これから行くお店、あそこに決めた理由って何?」

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シナリオ:びあんこ