ストーリー
ほの暗い小道を、チカチカと点滅する街灯が照らす。
歩みを進めるたび、スニーカーと砂利が擦れる音だけが、一定のリズムを奏でていた。
かつて中心都市として栄えたこの街、セントリア。
終戦から数年が経ち、大規模な復興によって街全体が目まぐるしい変化を遂げていた。
この国、海岸国家〈クロイエル〉は、隣国との戦争に敗れ、国全体で食料や物資が不足。
それに伴って人々は自然と都市部へと流れ込み、セントリアを起点に人と建物が活気を取り戻した。
一時は都市への一極集中が進んだが、やがて富裕層は都市郊外に平穏な暮らしを求めて移住し始め、結果として中心都市だったこの場所は空洞化し、今やスラムへと成り果てている。
治安の悪化を受け、国は衛生環境やライフラインの整備を推し進め、同時にある政策を施行したことで、状況は幾分か改善された。
そのおかげで、俺たち未成年でも、夜の町を歩ける程度には安全になったのだ。
少し狭い通りの先に、ポツンと佇む喫茶店が見える。夜更けの静けさが存在感を増すこの時間帯、道中の路地裏では男達が殴り合っていた。
だが、この街ではそれすら日常の一部にすぎない。彼らの怒声や物が壊れる音を横目に流し、俺は目的地へと歩みを進めた。
「今日は少し早く出すぎたか」
店に着き、誰に言うでもなくそう呟く。
店の奥にあるテーブル席へ通され、コーヒーを注文する。少し酸味があるブレンドが売りのここのコーヒーは絶品で、このためだけに足繁く通う客が多くいるらしい。
オーダーを聞き、厨房の方へ歩いていく店員を途中まで見届け、1日の疲れを深い息と共に吐き出す。落ち着いた雰囲気の内装と、心地のいいジャズがかかる店内は、体を暖かく包み込むような安心感があり、心が休める憩いの空間だ。
店内に漂う香ばしい豆の香りを、しばらくの間鼻腔全体で楽しんでいると、ふわりと甘く、柔らかな香りが鼻先を掠めた。
同時に、肩を“ちょんちょん”と叩かれる。振り向くと、はにかんだ笑みを浮かべる少女が立っていた。
「こんばんは。早めに家を出たつもりだったんだけど、待たせちゃった?」
明るめのブラウン色のセミロングヘアが、肩のあたりで揺れている。
くっきりとした二重まぶたに、どこか幼さの残る整った顔立ち―
成早モカ。彼女こそが、今日の待ち人だった。
「思いのほか早く着いちゃっただけだから、気にしないで。それより、何飲む?」
「じゃあ、カプチーノでお願い。」
モカも注文を済ませ、それぞれの飲み物が入ったカップを片手に、お互いの近況を話し合う。
喫茶店で飲み物を楽しむ趣味は元々無かったが、初めてモカに勧められてここに来て以来、店内の雰囲気や件のコーヒーがとても気に入り、モカ以上にこの店が好きになっているかもしれない。二人揃ってこの店がお気に入りのため、定期的な集まりはいつもここで開催される。
「そういえば、esデバイス。最近、正常に機能しない事例が出てるって噂になってるらしいね」
「噂程度には聞くけど、実際に見たことはないけどね」
esデバイスとは、隣国との戦争が始まる数か月前から国民への装着が義務化された、脊椎に直接埋め込む次世代式マイクロチップの名称だ。
正式には「身体拡張支援機器」といい、バイタルチェック、時計・スケジュール管理、決済機能など、日常に必要な機能を備えている。
そして敗戦後の治安悪化を受けて、暴行事件などへの抑止として新たな機能――戦闘時の痛覚を再現する機能が追加された。
人を素手で殴った時、通常は殴った側は反動と痛みが手に、殴られた側は殴られた箇所に痛みが走る。だがこのデバイスは、装着者同士の接触を感知すると、直前で筋肉信号に介入し、物理的な接触を止める。その上で、神経に電気信号を送ることで、反動や痛覚だけを仮想的に体験させるのだ。刃物はおろかこぶしでの傷つけあいすらこの社会では無縁となったことで、人々の反発は実装して間もなく収束した。
敗戦を受け、医療従事者の人手が不足している上に、国内での暴力行為が蔓延し、治療へ割くリソースが日増しに増えることへの対策とのことだ。これが治安改善に踏み切った代表的な政策で、先ほどの喧嘩を気にも止めなかった理由がまさにこれだ。
「そっ。一度も壊れたなんて感じたこと無いし、これが無いと逆に生活できないくらい不便なんだけどな。」
あり得ないあり得ない、と呟きながら首を左右にふって見せる。
「何せ、いつもメンテナンスをきっかりこなしてくれる優秀な整備士さんもいることだし」
と、こちらを見上げながらイタズラっぽく笑う。
「慣れているとはいえ、身体にとっては異物なんだけどね。それと…そこまで信頼を置いてくれるなら定期メンテたまにサボらないでよ」
昔、俺は道端で困った様子の少女を見かけた。いつもなら気にも留めないが、その時どうしようもない不安が顔に滲んでいるのが見え、不本意にも声をかけていた。事情を聞くと前任のデバイスの整備士と上手く行かず、勢いで契約を切ってしまい、後任を探すのに難航していたのだとか。聞いた以上、見過ごしては夢見が悪いので俺が引き継ごうかと提案をし、定期的に診るようになったのがモカとの出会いだ。
理由は深く聞いたことが無いけれど、メンテナンスに少々の抵抗があるようだが、精密機器が関わることなので定期的に見てあげたい思いもあり、ついうるさく言ってしまう。
「うぇ…最近はちゃんとしてるもん…あ、もしかして、私の肌がそんなに見たいの?」
「へー、今度のメンテでデバイスが正常に動かなくなる事件が起きちゃいそうだなー」
「出たなパワハラモンスター、そういうの、モテないよ?」
こうして他愛もないやりとりを交わしたあと、会計を済ませ、二人で店を出た。並んで歩いていると、ふとさっき目にした路地が視界の端に映り込んだ。喧嘩は収まったようで、動く人影は確認できない。
「う"っ…くっ…」
その場から離れようとしたその瞬間、通りの先で、何か微かなうめき声がした。何か…何かよくない予感がする。本能で目をそらすべきだと感じる。しかし直感に反する思いが身体に広がっていく。夜闇で判然としない視界の奥にあるものへの探求心が強い衝動を生み、気づくと一歩、路地裏へ足を踏み入れていた。
「ちょ、ちょっと…え、こっち…」
モカは動揺と暗がりへの恐怖からか言葉にならないことを口にしつつ、俺のトップスを両手で掴み、少し後を着いてくる。
奥へ進むにつれ、視界が定まり、ついに音の主の元へにたどり着く。
「え…な、何、これ…え、だって…」
モカは狼狽え、先程よりも服の端を強く強く掴んでいるのがわかる。
目の前には無機質なコンクリートの壁に背中からもたれ掛かるようにだらんと項垂れる、男の姿があった。赤黒い液体が男を取り囲むように周囲に広がり、目から光が消え、気味の悪い人形のように成り果てた姿を際立てている。
「なんで…?」
ふと口をついて出た言葉が一瞬自分の声だと気づかなかった。目の前のあり得るはずのない光景に鼓動が速くなるのを感じる。デバイスの機能を考えればあり得るはずのない流血を目にし、吐き気にも近い気持ち悪さが身体中を駆け巡る。
見たところ、この血の池を作っているのは腹部にある細く割けたような傷であり、目を背けたくなるほど惨たらしい状態で晒されている。
見たことも感じたこともないような痛みを想像し、身体が芯から冷えるような感覚に襲われ続けるも、身体の自由が少しずつ効くようになってくる。色々と疑念は沸き上がっているが、まずはこの人の生存確認をしなければという思いが自分を突き動かして、ぎこちない動きで身体を屈め、首筋に二本の指を立ててあてがう。
脈は…もうなくなっていた。
「っ…ダメか…」
ここまでの出血量、そして一切の動きが見られないことから、頭では薄々わかっていた。だが万が一、億が一にも、そんな可能性を、希望を抱き、現実を受け入れきれずにいた。頭の中になぜというフレーズだけが反芻して広がっていく。なぜ、の対象は目の前の事象へか、それとも路地へ歩いた己の行動へか、あるいは今日という巡り合わせに対してか、そんなことすらわからず、思考の沼へと意識が沈んでいく。
衝撃的な事実に打ちひしがれていると、少し後ろからどっ、と少し鈍い音がした。そこでようやく我に返り振り向くと、モカが腰を抜かして尻餅をついていた。呼吸が浅く、身体が小刻みに震えており、今すぐ彼女をつれてこの場を離れるべきだと判断する。
モカの手を取ろうと動き出す直前、ある思考が後ろ髪を引く。この事件を見過ごしていいのか、また同じ事件がモカや俺や身近な人に起きるのではないか、という杞憂にも思えるほどの疑念だ。普段であれば考えもしなかったが、目の前の男の顔に身近な人の顔を重ね、ありもしない良くないことを様々考えてしまったからだろうか。
整備士は他人の身体に直接埋め込まれた精密機器を扱うという特質上、自分以外のデバイスへアクセスする管理者権限が与えられている。
俺はおもむろにesデバイスの操作を始め、職権乱用を承知で、男のデバイスにアクセスした。
目の前の男のesデバイスに記録されている事件前後のデータ、記憶を映像として記録したメモリを読み込む操作を手早く済ませる。読み込みを開始すると、全体で何割を読み込めているかが、視覚的にわかりやすい棒グラフで表示される。ロードの進捗状況を眺めると、その進みが異様なまでに遅く感じられ、何かとてつもない焦燥感に駆られる。ただひたすら早く終われという願いを込めて進捗状況を眺め続けた。
そしてついに、無限にも思えるような時間に終止符が打たれた。
ようやくの読み込み完了通知を確認するや否や、足早にモカの元に駆け寄る。
「大丈夫?歩ける?一旦ここを離れよう」
おそらくいつになく早口でまくし立てている。それでもできうる限りに平静を装い、モカを安心させようと努めたが、どこまで口調に反映できていたのだろう。次から次に浮かぶ疑問は、恐怖と焦燥感ですぐに塗り替えられる。
「あ、あのね…ごめん、あたし、腰が…動けなくて…」
普段はつらつとした振る舞いをした彼女からは想像もつかない弱りきった口調に、自分を改めて奮い立たせ、次の行動に移る。
「わかった、俺が運ぶから動かないでね」
そう言って膝の下と背中に腕を回し、そっと抱き上げた。モカは驚くでも拒むでもなく、ほんの少し安堵の色を浮かべた。俺もモカの体温を感じ、目の前に広がる光景がようやく現実味を取り戻してくる。きっと伝わっているであろう腕の震えを感じ取られていることにかまける余裕も無く、精一杯足を前へと動かすことに全力を注ぐ。
こうして無我夢中で歩みを進め、路地裏を後にした。
走っている間は必死で、何が何だかわからないままひたすら進み続け、気づくと俺の家に着いていた。
モカを玄関前で一度下ろし、鍵を開けて二人で家に入る。
今まで一度もモカを家にお招きしたことがなかったが、まさかこんな形で成り行き的に来てもらうことになるとは、世の中分からないものだなと何故か随分冷静に考えていると、先に上がったモカが俺の正面に立ち、玄関先で向かい合う構図ができる。
「さっきはごめん、ほんとにありがと。」
軽く頭を下げて、困ったように笑う。目の下が少し赤くなっており、それでも気丈に振る舞って笑顔を作ろうとしている表情からは感情が崩れる寸前なのにひたすらに無理しているのが見て取れる。辛いときほど笑顔でその本心を隠そうとする時のいつもの顔だ。
「こっちこそ、変なことに巻き込んじゃってごめん…辛い思いさせちゃったね」
「そん…な、こと、ぜんっ…ぜん…」
モカが抑え込んできた感情の蓋が段々と緩み、涙となってポロポロと溢れ出した。鼻水を小さくすする音が玄関先の細い廊下で小さく反響する。
泣きじゃくるモカにどう声をかければいいのか分からず、とりあえず彼女を奥のリビングへと案内し、椅子に座らせた。暖かいものを飲めば少し落ち着くかもと考え、家にあった紅茶のティーバッグを適度に熱したお湯に潜らせてお出しする。モカも涙が段々と収まってきたのか、ゆっくりとカップに手を伸ばして口に運ぶ。
「はぁ…あったかい。それに、優しい甘さ」
甘いものを好んで口にするのをよく目にしてきたので、ハチミツも入れてみたが、気に入ってもらえたようだ。
「ハチさんと俺の努力の賜物かな」
「何だそれ」
そう言いつつモカはふっと笑った。緊張していた空気が和らぎ、ようやくお互いに方の力が抜けた気がした。喫茶店で繰り広げる軽口が居心地のいいものだったのをしみじみ再認識した途端、クーとお腹が鳴った。
するとモカは笑いながらある提案をしてきた。
「あたしも小腹空いたな。シェフ、なんかお夜食食べない?」
「ラーメンでよろしいですか、お客さん」
「くるしゅーない、持って参れ」
「いや、モカも手伝うんだよ」
「仕方ない、凄腕助手が手を貸したげるから、世界一美味しい背徳ラーメンよろしく」
「百貫おデブにしてあげるよ」
こうして自称凄腕の使いっぱしり、もとい助手と一緒に家にあるインスタントラーメンを見事に美味しく作り上げ、スープもすすって綺麗に完食した。そしてお風呂での眠気との葛藤に見事勝利したモカは満足げな様子でリビングへ戻ってきた。
「お風呂お先にいただきました~。ありがとね」
「はいはいー。あ、嫌じゃなければ俺のベットで寝て、一応綺麗にしたから」
「いやいや、そんな悪いよ。ってかあたし帰るよ?」
あんなことがあったばかりでそのまま帰した後が怖すぎる上、時間もかなり遅いため、これから家に追い返すのはこちらが心苦しい。何度か問答をしたものの、俺の必死な説得で今日は我が家で休む決断を下してもらった。
気遣いモンスターとの小競り合いをなんとか終え、俺もお風呂を済ませ、寝る準備を整えた、リビングに戻ると、モカはすでにベットで静かな寝息を立てていた。
ここで俺は今日の一連の出来事をふと思い出す。不可解な殺人事件、そしてモカの泣き顔が脳裏をよぎる。俺があの路地に足を踏み入れたことで彼女は苦しい思いをすることになったのだという自責の念に駆られ、強い罪悪感を覚える。明日になっても引きずってしまっていたら、いつもの元気なモカで無くなったらと考えたが、幸せそうに眠るモカの顔に、今だけは大丈夫だとなぜか安心できた。
責任感を発端とした緊張の糸が緩んだ途端、すぐに強い眠気が襲ってくる。酷く重い瞼に耐えきれず、ベッドに横になれたものの、電気を付けたまま深い眠りについてしまった。
重い瞼がゆっくりと開く。
今が朝なのか昼なのかもわからず視界が安定するまで目を何度かしばたき、デバイスで時計を表示させるが、数字がただの模様にしか見えなかった。脳みそが遅れてついてきて、ようやく正午より少し早いくらいの時間であると把握する。
起き上がるために上半身に力を入れると、腰にあまり感じない類いの痛みが走る。慣れないソファで寝落ちしたせいだろうか。
なんとか身体を起こすことに成功したところで、近くから自分とは別の衣擦れの音が聞こえてくる。
「ふぁ…はぁ…おはよ」
モカもちょうど今起きたばかりのようだ。
元気を取り込むように大きく息を吸いながら伸びをしてこちらに視線を向ける。まだ疲れの色は抜けきっていないものの、昨夜より顔色が良くなっているようで、少しだけ安心する。
「おはよう、もう昼前だね」
「うは、寝すぎちった~」
「普段は何時頃に寝起きしてるの?」
「11時に寝て6時起きの健康優良児!世界のアイドルモカちゃんだよ」
わざわざご丁寧に片目を閉じて少し下手なウインクをこちらに投げてきたが、自分にかわいい自覚があってやっている人のそれにしか感じられずムカッとしたので言い返すことにした。
「地域のごろつきの間違いでしょ」
「あぁん?」
ノリでやってくれているのは分かっているが、あまりに鋭い目付きでこちらを睨まれると流石に怖い。
「まさに体現してるじゃん」
「あらやだ、ワタクシったらつい素が」
「ここまでガードの緩いアイドルなら推せるかもね」
「今からでも間に合うよ?」
「あ、いや、お構い無く」
「は?」
どこかで聞いた格言を思い出した。女性を怒らせてはならない、というコンパクトなフレーズ。今その短文に込められた言葉の真意、すなわち人々の経験と恐怖を身をもって感じた。
「あ、スイマセン、ジョウダンデスゴメンナサイ」
こうしていつものノリで言葉を交わすが、今日目が覚めてから、頭の片隅に昨夜の殺人事件の風景がちらついて、会話に一切集中できていない。
あまりにも衝撃的な光景、加えて非現実的な状況だった…見当も整理もつかない俺の脳みそは、なんとかそのわだかまりを解消しようと、その時の光景を壊れたラジオのように繰り返しフラッシュバックする。思い返したとて、何も解決できないことに変わりは無いのに、自分に言い聞かせてもそれが止むことは無いらしい。
既に自分の中で昨日と今日の境目はとっくに壊れてしまっているようで、血を流してうなだれていた男を目にしたのがついさっきのように錯覚しだしている始末だ。
身体を動かしていれば気が紛れて、昨日の生々しい感覚を忘れられるのではという淡い期待に賭けてソファーから立ち上がって朝の支度に動き出す。モカも俺が動き出したタイミングに合わせて、ついに起きることを決心し、フローリングを両足で踏みしめ、勢いをつけて腰を上げた。ベットの甘い誘惑に打ち勝てたものの、とても名残惜しそうに眉をひそめた表情でけだるげに歩き出す姿を視界の端に捉え、小さく笑ってしまったのはここだけの秘密だ。
世間的に朝というには少し怪しい時間に目を覚ました俺とモカは、こうしてようやく朝の、もとい昼の準備に取り掛かり始めた。
俺は朝ごはんの準備のためにキッチンへ、モカは身だしなみを整えるために洗面所に陣取るのだった。
朝ごはんは何にしようかと冷蔵庫の扉に手をかけ、ふと住み慣れた家から自分以外の生活音がすることに気づき心がざわつく。考えてみれば、こうして人と一緒に朝を迎えるのは凄く久しぶりのことだった。というのも、俺は1,2年前にこの街へ移り住んで以来、ずっと一人暮らしをしており、こっちに来てからある程度関わりを持つようになった人はいるが、深い関わりにならないように身を引いていた。自分の生い立ちも相まってか人と関わることに抵抗がある…もっとあけすけな言い方をすれば人との距離が近くなることが恐ろしいと感じることに起因しているのだと思う…
それと、後付けのような理由だが、一見するとシャッター街にしか見えない通りをしばらく歩いた先に俺の家があるため、訪ねてくる人や、ましてや泊っていく人は滅多にいないのだ。
「…けど、貸してくれない?もしもーし?」
「え?あっ、ごめん、何だっけ?」
物思いにふけっている最中だったため、音が聞こえてくる程度に感じていたが、意識が次第に外側に向いて、ようやくモカが自分に対して声をかけていることに気付き、身体をびくつかせてしまう。反射的に声が聞こえた方へ上半身をひねりつつ、前半部分の内容が聞こえなかったので聞き返してみる。振り返る先には、洗面所で身支度を整えていたモカが扉を少し開け、身体をひょいと乗り出して話しかけてきていた。
「ごめんびっくりさせちゃった?ヘアバンドとかあれば貸してくれないかなって」
「あ、ヘアバンドね。それなら使ってないのが洗面所の右側の棚の一番上にあるはずだからそれ使って」
「ありがと、、ねぇ、大丈夫?」
モカは急に黙りこくり、少し目をそらして何かを躊躇するような仕草を見せたかと思えば、漠然とした質問をぶつけてきた。瞳の奥が少し揺れている…ように見えた気がした。
「ん?大丈夫って?」
「いやその、体調というか…」
「あー、全然元気だよ、少しぼーっとしちゃっただけ」
「そう?ならいいけどさ…あ、ヘアバンドありがと、借りるね」
そう言って扉をパタンと閉め、また洗面所の方へとモカは戻っていった。
リビングに再び一人きりとなり、首を傾げる。モカはなぜかとてつもなく俺に対して心配をしてくれていたようだが、そこまで顔色でも悪いように見えたのだろうか。考えたところで答えがわからないので、一旦朝ごはんのことに思考のベクトルをシフトする。
気を取り直して冷蔵庫を眺めると、卵とベーコンを始めとした加工肉がいくつか、柑橘類の果物に飲みかけの牛乳パックくらいしか買い置きがなかった。普段は面倒であれば朝ごはんは無しにしてしまうことがしばしばあり、昼と夜も軽く作れるものか出来合いの弁当で済ますことが多いため、考えてみればいつも我が家の冷蔵庫の取り揃えは悪い。一人暮らしの良さの集大成とも言えるが、今日のようなお客様が来る場合には都合がむしろ悪いため、意外な盲点だった。
今更これに小言を言っても仕方ないため、メニューをどうするかに頭を回す。可能ならオシャレな朝ごはんにでもしてあげたかったが、自分に考えうる範囲の知識とこの食材たちでは限界がある。どうしたものか、、
考慮の末、スクランブルエッグと焼きベーコン、トーストにコーヒー、一口大に切ったオレンジを添えてモーニングにすることに決める。目を見張る程豪華な食事にはならないが、モカに満足してもらえるよう、手を抜くことなく調理に当たる。
今日はしっかりと計画を立てて料理をしたためか、かなり順調に事を運ぶことができ、コーヒーのお湯が沸いて少しする間に他のメニューは作り終えることに成功した。あとはコーヒーを入れるだけとなり、カップを二つ、目の前に用意する。市販の顆粒タイプのコーヒーの粉を小さいスプーンでカップに移し、熱々のお湯をカップの淵に沿って円を描くようにそっと注ぐ。コポポと耳障りの良い音を立て、湯気と共に、ほろ苦く香ばしい香りが鼻先をくすぐる。豆の香りが、ざわつく心に寄り添うように身体に染み渡る。
モカも淹れたばかりのコーヒーの香りに誘われてきたかのようにベストタイミングでリビングに戻ってくる。扉を開けると、リビングに充満していた香ばしい香りがモカの元に一挙に押し寄せてきたようで、大きく一呼吸。幸せそうに香りを堪能しながら、こちらにフニャフニャした声で話しかけてくる。
「朝のコーヒーって格別だよね~。なんか体のスイッチが一気に入る感じ」
「めっちゃ共感できるけどもうお昼周っちゃったよ」
俺の一言を聞いたモカは、普段見かけないようなシリアス顔で、その場に立ち止まり、こちらをゆっくりと見挙げてくる。信じられないと言わんばかりの目力でこちらに訴えかけてくるので、同じ目力でモカの目を見つめ返しながらマジだ、と伝える。
一瞬の沈黙が流れた後、モカが口を開いた。
「ひ、昼のコーヒーってかくb」
「モカさん、お見苦しいですよ」
「う…」
苦し紛れの言い訳を一刀両断されてしまい、覇気のない様子でとぼとぼとこちらにやってくる。だがキッチンまでやってきたモカはすぐにまた元気を取り戻し、目を輝かせて声を上げた。
「お~、おいしそう!これさっきのうちに作ったの?」
「うん、簡単なものだけだけど」
「いやいや!美味しそうじゃん、凄いね」
普段人に褒められることなんて滅多にないので正直嬉しい。あまり謙遜しすぎるのもどうかと思い、素直に肯定させてもらうことにした。
「い、いや~それほどでm」
「今の建前」
「んーと、き、聞き間違えかな、多分褒めてくr」
「だから建前」
「………モカ嫌い」
「じょ、冗談だって!いつものことじゃん~」
まさかこんなに早い段階で先ほどのカウンターをしてくるとは思わず、ノーガードのハートに言葉の刃がグサッと刺さった。ははは、と乾いた笑いをしながら、背中をぺしっと叩き、お茶にごしとばかりにご飯が冷めるから早く食べようと誘ってくるモカが今ばかりは悪魔にしか見えなかった。
料理を運ぶモカに釈然としない想いを抱きつつ、コーヒーに砂糖とミルクを入れ、2人分のカップをテーブルまで運び、ようやく腰を下ろしてひと段落。ご飯を向かい合う形で食べ始める。
「ん~この卵味付け最高、んま~」
美味しそうに作ったものを頬張っている姿が見れて、気合を入れて作った甲斐があったと心の中でガッツポーズを小さく一つ。口にあったようでとにかく何よりだと胸をなでおろした。もしあまりおいしくないものでもモカなら気を使って食べそうな気はするが、きっと本心から言ってくれているような、そんな表情と仕草だった。
「ほんと?無理なら俺が食べるから残していいよ?」
だからこそあえて冗談でこう言ってみた。すると、モカは目を大きくして、本気のトーンで嫌がっていることをアピールしつつ言い放った。
「絶対全部食べるんだけど!……さっきのは本当に冗談で普通においしそうだと思ったから、ほんとだよ…?」
急にしおらしい感じで来ると思わず、こっちまで調子が狂う。少し意地悪が過ぎたと反省し、先ほど思っていたことを包み隠さず口にした。
「口に合ったようで何よりだよ。作った甲斐があったってもんだ」
「確かに、このベーコンの塩の味とか、卵に添えられたケチャップのトマトの酸味とか、ほんとに気に入ったよ」
「この期に及んでなんで調味料を褒めるかな!それ作ってるの俺じゃないんだょ…」
俺の消え入るような声で言い放ったツッコミが余程気に入ったのか腹を抱えて笑っているモカを見て、つられて自分も笑ってしまった。2人してひとしきり笑い、その波が引いて落ち着いてから、ようやく俺もトーストを口する。サクッとした軽い音がパンをかじった瞬間に口から頭の方まで響き、小麦の食欲をそそるにおいを口いっぱいに含み、焼き立てのパン特有の軽快な食感を楽しみながら咀嚼する。
次いでスクランブルエッグを食べようと視線を移したその瞬間、ふと胸の奥に嫌な予感が蘇った。映画館のスクリーンで目の当たりにしたかのように、臨場感が余韻となって頭にこびりついたあの光景だーー
スクランブルエッグにかけたケチャップが少し液状になって広がっているのを見て、今まで気を紛らわせていられたのに、再び昨晩の事件の光景が蘇る。うなだれる男の腰から足先の方にかけて円状に広がっていた血の池はこの赤いソースとは、色も質感も似つかないが、想起するきっかけとしては十分強烈な要因だった。
元々ケチャップを添えた時点ではまだ冷蔵庫から出したばかりで固形っぽさが強く、また今と比べて遠いところから見ていたため、先ほどは何も感じなかったが、余熱で水っぽさが増して、じんわりと広がる赤に既視感を覚えたのかもしれない。
一挙に血の気が引いて、自分の身体が別人のもののように感じられた。自分の感じる違和感は傍から見ても明らかだったようで、モカはご飯を食べていた手を止めて俺の顔を凝視してきた。
「ねえ、ほんとに大丈夫?また顔真っ青…」
「いや~…」
頭が碌に回っていないせいか、いつもなら絶対にしないような曖昧な返答をしてしまう。モカは俺の目元や表情をじっくり観察し、何か確信を得たようなはっとした表情を一瞬浮かべた後、真剣な面持ちでゆっくりと口を開いた。
「やっぱり昨日の事件のこと、気になってる…?」
心の中を見透かされたのかと一瞬本気で疑った。
正直、こんな風に見抜かれるなんて、思ってもみなかった。
拍子抜けした表情をモカに向けて絶句していると、モカは重ねて言葉を発した。
「昨日のことがあったから、私に気を遣って話題にも出さないようにしてくれてたんだよね、多分。実際私、昨日は凄い取り乱しちゃったけど、もう大丈夫!だからさ、もし言いたいけど胸の内に留めてることがあるなら言ってよ」
慎重に言葉を選びつつ、俺の心配をしてくれているのだろう。まっすぐな気持ちで自分を気にかけてくれている目の前の少女の厚意に甘えて、素直に朝から昨晩の事件が脳裏にちらつき、事あるごとに思い出していたという経緯を話した。
「そうだよね、昨日のあれ、実は私も朝から気になってた。すっごい怖い思いしたな~って言うのは確かに大きいけど、それ以上にあたしが足がすくんで動けなくなってたところを手を引いてくれた姿が印象的。昨日は頼もしかったよ、ありがとっ」
素直に感謝を伝えられた時、どう返答すればいいか分からず、恥ずかしさをごまかすように頷きながら言葉を紡いだ。
「うん…二人とも無事で、こうして朝ごはんを一緒に食べられてよかったよ」
下手な照れ隠しはきっと見透かされているだろうが、それでも本心に変わりは無い。それに、モカに胸の内を話して、お礼を言ってもらえて、心が急にふっと軽くなったのを感じる。自分でも気づかない内に責任感を強く持ちすぎていたのかもしれない。モカは知ってか知らずか俺の心の緊張を解いてしまうのだから、本当に凄いと切に感じたのだった。
「にしても、改めて考えるとおかしな光景だったよね。esデバイスがあるのにあんなことが起きるなんて」
ふと事件の話から連想したであろうことを口にする。昨日事件の現場を目撃した時から、俺もずっと頭の片隅で引っ掛かり続けていた謎、一体どんな手法を使えばあんなことが成しえるのだろうか。
「俺もずっとそのことが気になってるんだよ。もしあり得るとしたら自殺かなって考えたんだけど、過去にそういう事例が実際に起きてから、自殺も出来ないようにシステムが変更されたらしい」
「じゃあやっぱり…他殺…」
「ってことになると思う。第三者に刺殺された可能性しか考えられないんだけど…」
「esデバイスには他者に危害を加える一切の行為を止める機能がある、と」
「「ん~…」」
二人で声を合わせて唸り声をあげる。堂々巡りする思考に頭を抱えていた最中、ふとあることを思い出す。
「あ、そうだ!昨日あの男の人のデバイスに保存されてる映像データ、こっそり読み込んできたんだった」
つい嬉しくなって、自分が職業上やってはいけないことをしっかり口にしてしまった。心で誰に対してかもわからず頭を下げつつ、2度としないと心に誓う。モカは勢いよく顔を上げ、目を丸くして驚いた様子でこちらを見つめてくる。
「え?そんなことしてたの?」
「うん、ほんとはやっちゃいけないことなんだけどね」
ばつが悪そうに少し笑いながら、保存データを開くため、デバイスのダウンロード項目一覧を開く。
ん…?
昨日読み込んだデータの項目をスクロールして探すがどこにも見当たらない‥
昨晩は気が動転していたとは言え、確かにデータのロードは間違いなく行ったはずだ。
「どしたの?」
「ロードしたデータが…見当たらない」
「まさかの記憶違い…とかはないか」
モカの考えも一理ある。一瞬は自分の記憶違いも疑ったが、即座にそれを否定した。確かにこの手で作業を行った、はずだ。頭が、身体がそれを記憶している。そう断言できるからこそ、自分ではなく機械に対して疑いが向く。まさか故障していたのか…とも思ったが整備士をする上で必ず使う商売道具、普段から欠かさず手入れをしているため、その可能性は低い。
考えうる限りの可能性を洗いざらい思考したが、どれも説明たりえるものではなかった。謎を解決する手掛かりとなるはずが、まさか更なる謎を呼ぶ要因になろうとは…
モカとも色々と相談してみたが結局謎は深まるばかり、一体何があの一夜に起きたのだろう。その疑問に対し、モカはある提案をしてきた。
「今日さ、もう一度あの場所を見に行ってみるのは、どうかな?」
少し震えた声で恐る恐る訪ねてきた様子から、怖さはぬぐい切れないが、それでも真相を究明したいという気持ちとのせめぎあいが起きているのだろう。気持ちはモカと一緒で、本当のところはどういうことだったのかとても気になる。
「うん、二人で…見に行ってみようか」
こうして二人で言葉を交わす内に、コーヒーに立ち上っていた湯気はいつの間にかどこにも無くなっていたのだった。
朝食を食べ終えた俺とモカは、外に出る身支度を手早く済ませ、家を後にした。
家を出たモカは街並みをキョロキョロと見回しながら俺の後ろを付いてくる。考えてみれば昨日はモカを抱えて家まで直行したので、本人からすれば知らない場所に急に放り出されたような感覚なのだろう。
家の周りは似たような構造の建物が入り組んだ道に沿って無作為にそびえたっていて、初見の人からすればそれこそ迷宮にも感じられる。
家まで繋がる細く伸びた道を少し進んでいくと開けた少し広い大通りに出るのだが、そこはシャッター街の一本道で、随分先の方まで続いていて、これまた慣れない人には自分の所在がわからなくなる落とし穴だ。昼と夜で見せる街の姿を変えるのも相まって、俺もこっちに引っ越してきたばかりの頃は帰路を辿るのに随分と遠回りをした記憶がある。
モカの歩調に合わせ、気持ちゆっくり歩きながら雑談をし、ひたすらシャッターに挟まれた道を歩いていくと、ついに見慣れた大通りに出る。ここから更にしばらく歩いて、小道に入ると行きつけの喫茶店が見えてくるのだが、時間にして20分は下らない。
覚悟して歩き出したが、モカとの会話に花を咲かせていると時間が過ぎるのはあっという間で気づいた頃には目的地の道の前まで来ていた。
「じゃあ…行こうか」
モカに、というよりは自分自身に対してかけていた言葉にも思えた。
そしてついに重い足取りでゆっくりと小道へと足を踏み出した。
昼間でも周りの建物に囲まれ薄暗い道は、ここは暗闇の巣窟だとでもいわんばかりの物々しい雰囲気だった。夜に来るときは街灯のおかげで昼間より明るい分、今のこの道はより暗さが強調されているように感じる。
昨晩事件を目撃した脇道の前で一度立ち止まり、息をのむ。きっとこの先に今日湧き出た疑問の答えの全てがある。だがまたあの光景を目にするには、一度心の準備が必要だった。
ふー、と深く深呼吸をし、モカと顔を見合わせ頷く。お互いに準備ができたことを確認し、胸を張って角を曲がる。力強く足を踏みしめて歩みを進めた道の先、昨日死体を発見した場所にはーー
死体はおろか、血痕すらもどこにも見当たらなかった。